自分で「私はこういう人間だ」と、あるていどの自己評価と
人から見た自分への評価のあまりの違いに愕然としてしまうことがある。
まったくの別視線、別次元と言ってもいいほど(笑
これは心と体と精神が平穏な状態なときですら、へぇ、と相手の評価の酷評と否定に傷つく。
辛いものである。
それが心と体と精神が乱れていたらどうであろう?
たちまち自分の避難場所へとこもり、明かりのないシェルターで膝を抱え頭を抱え悶えてしまうのである。
私も自分は多動ではないが注意欠陥症であることはよく理解している。
しかし、他から見るとどうやらそれだけではないようなのだ(笑
先日は「母さんは◯◯◯◯◯症候群だよ」、と言われてしまった。
どうやらADHDだけではなく◯◯◯◯◯症候群でもあると周りからは見られているらしい(^^;
それはさておき。
私は自己評価がとても低かった。
自分はこの地球で暮らしていける十分な資質を持っていない、と思っていて(事実そうなのだけど)
だから普通の人にはチャレンジできることが自分のスペックではできないと思っていたのだ。
頭も良くないし体も丈夫な方ではなく、ヘタレだし力も気力もなく、家も財産も天性も、何もかも備わっていなかった(^^;
ふと、そんな自分に気づくと。
そんな自分でもよくここまで生きてこられたものだなぁ、と感慨深い。
案外、自分は図太いのではないかとすら思いはじめた。
体が弱い。
そう、子供の頃からずっと数値という数値がすべて低くて、そして逆に特定の数値は人並みの以上の数値だったのだ(^^;
血液でも勉強でもね。
勉強もある一定の教科だけなら有名高のトップクラス並みであったようだ。
ああ、もうなんなんだ、わたし。
平均的な方を社会は求めるものだと知り、適応できない自分に不安になり、地球で暮らしていけるものは何一つ備わっていない、欠陥人間、ダメ間だと自分をそう思い込んでしまったのであるね。
そうして、なんとか手探りで折り合いをつけてほっとしている頃に、また
「◯◯◯◯◯症候群だよ」
と言われるのである。
しかしながら、もう今は自分の受け止めが違うのである。
今はADHDであっても、◯◯◯◯◯症候群であっても、なんだかそう言われてもすがすがしいのである。
不安や恐怖の中でも、たくさん向きあおうと思ってたくさんトライしたし、限界もあったし、そんな現実に素知らぬ顔もし、逃げたり、また傷つけもしたけれど。
それでもこうして生きてきた。
これは今このとき、自分史上の奇跡を目の当たりにしているのではないだろうか。
私がADHDでも◯◯◯◯◯症候群でもどうやら周りはそれをスルーしていける能力が備わっているようだし(^^;
逆に私にも、周りの精神や心の脆弱性がよく見えることがある。それによって弾き起こる価値観の押し付けなど。
繊細だと思っていた自分が人から見たら図太いだったり(^^;
結局、みんな決めつけてるだけなんだね。
自分も人も。
だから、結局そうなんだから、自分は自分を心地よい評価のところに置いておいてあげるのだ。
それが自分にとっては、正解。
自分が愛おしい、かわいい、よく頑張っている。
そう言って自分に手を当ててヒーリングしてあげよう。
自分の心地よい心、体、気持ちは自分にしかわからない。
自分で自分を落ち着かせ癒してあげよう。
自分の心や体と裏はらな言葉や行動をしていると、ダメージを受けた細胞が行き場なく、不調へと向かう。
さあ、あるていど人の力も借りたならば、あとは自分で自分を癒していこう。
なぜならば、人と自分との認識の間には渡れない川の波がゆらゆらとあるからだ。
固有の周波数とも言うね。
それぞれの固有の周波数だから、それはもう仕方がないものなのだ。
そういうものである。
そんなニュートラルな感覚で周囲とのバランスをとっていくしかない。
そこで躍起になって、あの人は私のことを何もわかってない! わかってくれようともしない! と感情的になると
あの人と私の間にある川が激しく波立ち、うねり、轟音を立て、荒れ狂う川となって目の前に立ちはだかるのである。
そういうものである。
もうどんな自分でも愛おしい。
そう思えたら今生きている自分が自分史上の奇跡であると吹っ切れるのではないだろうか。
今日もここまでありがとう〜💖