壁から手が・・・思い出した

星

そういえば私はどうして般若心経を唱えようと思ったのだろう?

あれは19歳の頃のことです・・・

寝ている時に壁から手がニュッと出てきて私の頭を押さえつける、ということが何度かありました。

それが怖かったのでしょうね。

自分を守ろうと般若心経を覚えたのだと思います。

それから幽体離脱のような体験をしたり(あれが幽体離脱というものかは謎)

気がつくと写真に白いモヤモヤだったり青い美しい帯が横切ったものが写ったり(今のスマホで撮ったようなものではなく)

あれ?

私、バリバリにスピリチュアルな体験を積んできてるではないですか!?

そうして小さい頃は普通に生きている人間のように語りかけられたことがありました。

額から血だらけの男の人が私に手を伸ばして助けを求めてくるのです。

小さかった私はそのままその場を去ったのですが、ずっとずっとそのことを気にしていたのです。

どうしてあの時、大人に声をかけて助けることをしなかったんだろう、って。

私のせいでもしかしたらあのまま死んでしまったのではないかと、ずっと気に病んでいたのです。

でも、最近になって・・・。

そういえば、大人たちは誰もそんな出来事が起きたという話をしていなかったことに気づいたのです。

だって、額から血をだらだら流した男の人が倒れていたらきっとその辺りでは話題になっただろうし、仮に亡くなっていたとしても話題にのぼるはずなんです。

今更ながらに変だな、と思い始めたのです。

先日の神社リトリートの下見の帰りに天の声の通訳の真由美さんにそのことを聞いたら

「それはゆずさんがその人がもうこちらの世界の人ではないことを知っていたからですよ」

とさらりと言われてしまいました。

そこで、小さい頃は普通の生きている人間のように見えていたんだな、と分かったのです。

でも不思議ですよね。

私と目を合わすと、「おい」みたいな感じで横たわりながらも腕を伸ばして「助けてくれ」と言う声もそのままリアルだったのです。

今思うと目が合った時点で、「おい」、「見えてるのか」と言うことだったんでしょうね。

どうやらなまじ助けを呼ばなくてよかったそうですよ。

 

そして10歳の頃はもう不思議なものが視覚として見えなくなっていました。

誰もいないのに現象だけが目の前で起こっていたので、今から思えばもうその時には姿が見えなくなっていたのですね。

これはこれで怖かったですね。

 

まさよさんのブログで

小さい頃は誰もが見えているけれど、その能力は徐々に失われていって、失われずに残るとそれは恐怖に変わっていくから見えなくなる方がその子にとってはいいことだ、という内容で書かれていたのです。

これ、本当にそうなんだ、と思いました。

見えなくはなるし、でも現象は目の前で起こるし、これって相当怖いですよね。

もう紛れもなく見えない世界が恐怖に変わっていたもの。

血だらけでも普通の生きた人間のように見えたらそんなに恐怖は感じないのよ。

19歳の時の壁から手も、あり得ないシチュエーションですからね。

壁から手って。

だからものすごい恐怖でした。

それは般若心経にもすがりたくなります。

 

でも、もうそれらは恐怖ではないことがわるようになりました。

怖いものだと決めつけていた、その意識に囚われていただけだったのですね。

恐怖の意識が解放されていくと、また精霊たちが戻ってくるそうですよ。

精霊たち。

楽しかったね。

本当に一緒に遊んでいて楽しかった。

でも見えなくなって・・・怖くなっていったのね。

 

でもそれは成長の段階での普通のことだということ。

怖がらなくてもいいんだ、と言うことを私も自分の経験から発していきましょう。

思い出していくと・・・私はつくづく体験することを選んだのだなぁ、と思います。

自分の経験や体験から伝えていくことを選んだのですね。

人から教わることはすべてではありません。

自分で体験したことから伝えられることの方が多いのだと思います。

エネルギーと日々向き合っているとそう実感します。

私も恐怖を語るのではなく、体験に基づいてエネルギーや見えない世界を伝えていこうと思います。

 

そう言えば・・・宇宙人とコンタクトしたかったけどいざ現れたら怖い、と思って結局コンタクト断念したっけ(^^;

恐怖だけで生きてきたのかい? 私。

生きている人間にも怖い目に合ったし。

なんだか可哀想だったね、私。

でも、すべて経験でしたね^^

 

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